ピエロの仮面と、私の中にあった「歪み」

小学生のころの私は、とにかく「人を笑わせること」が大好きな子どもでした。
自分がふざけたことをして、友達がワッと笑ってくれる空間がたまらなく好きだったのです。
友達から
「ウケ狙いするなよ笑」
と突っ込まれても、
「狙ってないよ」と誤魔化しながら、いつもニヤニヤと笑っているようなお調子者でした。
私は3人兄弟の長男で、1つ下に妹、5つ下に妹がいました。
長男としてしっかりすることを求められる一方で、僕の裏には強いコンプレックスがありました。
とにかく運動神経が悪かったのです。
足が遅かったわけではありませんでした。というか、足は早い方でしたが、逆上がりもできなければ、上り棒にも登れません。加えてビビり。
親からはそんな僕を見てよく馬鹿にされました。
腕力も握力もないため球技はめっぽうダメで、ドッジボールではただボールから逃げ惑うだけ。
2人1組を作る時は「自分よりもっと仲の良い友達」が選ばれるため常に余り、サッカーのチーム分けでも最後まで売れ残るのが僕の定位置でした。
その反動なのか、当時の僕にはどこか歪んだ部分や、子供ながらの承認欲求が入り混じっていました。
絵を描くのは好きだったのですが、人が死ぬ絵などを描いていて親に見つかり、気味悪がられたことがあります。
また、うまく感情を抑えられず、小学5年生の時には友達に向かって彫刻刀を投げるという危険行為に走ってしまったこともありました。
よく女の子にちょっかいを出して泣かせては、その度に女の子たちに袋叩きにされていました。
今思えば最低最悪な行動ですが、それでもなぜかモテて、手紙やバレンタインのチョコをもらうこともありました。
学校では、自分なりに居場所を作るための工夫もしていました。
カードゲームの持ち込みが禁止される学校で、友達とノートを切り取ってオリジナルのカードを作り、「自作ならセーフ」という理屈で『遊戯王』をクラス中で大流行させました。
小学6年生の時には『給食番長』という絵本に感化され、給食の時間に自分が仕切り役になり、余ったおかずを独り占めするのではなく公平に分配する指揮をとったりもしていました。
外から見れば、少し変わった、でも元気なお調子者の男の子。しかし、私の心は、家庭という密室の中で少しずつ削り取られていたのです。
家庭という名の虐待監獄と鬼畜のルール

一歩家に入れば、そこは息の詰まる緊張感に満ちた場所でした。
我が家では、基本的に正座を強く強いられていました。特に勉強をする時と、食事の際は絶対でした。
食事の時の私語は一切許されず、テレビを見ることも禁じられていました。
実際に許されていたのは、親が見る教育番組と、日曜日の朝9時半までに放送されるアニメーションのみ。
バラエティ番組もドラマも音楽番組も見せてもらえず、漫画も読ませてもらえずに育ったため、
学校では世間の同年代の子供たちと全く話が合いませんでした。
流行りの話題についていけず、友達の会話の輪に入ることがとても難しかったのを覚えています。
家の中での罰も苛酷でした。何か親の意に沿わないことがあると、罰としてよく
「ご飯抜き」にされました。
夕飯を食べさせてもらえず、お腹が空いて苦しくてたまらない夜を何度も過ごしました。
さらに、頻繁に「家族会議」という名目の吊るし上げが行われていました。
それは家族の話し合いなどではなく、母親から父親へ、僕のその日の「問題行動」を報告する場でした。報告が終わると、父親から
「なぜそんなことをしたのか」
「理由を説明しろ、5W1Hに沿って答えよ」
から始まる終わりの見えない問い詰めが始まり、それが2時間近く続くことも珍しくありませんでした。親の望む答えを言わないと終わらないのです。
それだけでなく、親にとって「悪いこと」や「間違ったこと」をしたと認識されると、反省文のようなものを紙に書かされ、それを「10回連続で音読する」という罰が強要されました。
親はこれを「十回条」と呼んでいました。
【地獄のルール「十回条」】
直立不動の姿勢で読むことを強いられ、途中で声が小さかったり、少しでも姿勢が崩れたりすると、親の怒号とともに「1からやり直し」。あまりの恐怖と極度のプレッシャーから、時には吐き気を催し、実際に吐きながらも音読を続けさせられました。さらに、これに加えて親からの殴る蹴るの暴力がセットでついてきました。
そんな過酷な家庭環境の中、小学2年生の時に僕は突然てんかん発作を起こし、「小児てんかん」を発症しました。
それ以来、定期的に病院に通院する生活が始まりました。身体的にも精神的にも、常に大きな不安と恐怖を抱えることになったのです。
同じ小学2年生の時、念願のゲーム機を買ってもらいました。
しかし、「持ち出し禁止」「1日1時間」というルールを守れなかったことで即座に取り上げられ、その後一生、僕の手元に帰ってくることはありませんでした。
友達と遊んでも、自分だけゲーム機を持っていないため、いつも後ろでただ画面を眺めているだけでした。
私は、親の提案に「NO」と言えない子どもでした。
小学1〜3年までは理由も分からないまま水泳を習わされ途中で辞めさせられ、小学3〜4年の間は親の勧めでサッカーを習いましたが、まともに上達することはありませんでした。
私はただ、親の言う通りに動く「傀儡」だったのです。
小4の選択と、狂気の中学受験と虐待

私の人生の歯車が決定的に狂い始めたのは、小学4年生の時でした。
「将来、夏は涼しくて冬は暖かい場所で仕事をしたいなら、塾に行くべき。夏は暑くて冬は寒い場所で働きたいなら、行かなくていい」
親からそう告げられました。
今考えれば、小学4年生の子供にそんな極端な判断ができるはずがありません。
親の口車に乗せられる形で、僕は私立中学受験のための塾に入塾しました。これが、
本当の地獄の始まりでした。
それまで、授業を聞いているだけでこなせていた小学3年までは勉強が好きでした。
しかし、中学受験の塾は甘くありません。
4教科の膨大な授業があり、効率の悪い私は授業を聞くだけではまったく点数が取れなくなりました。
膨大な予習復習に追われ、友達と遊ぶことは一切許されなくなりました。
「遊びに行きたい」と許可を取ろうとすれば、
「予習復習は終わったのか?」と詰められます。終わるはずがないのです。
塾に入ってから、親の風当たりはさらに強くなりました。
「勉強を見てやる」と言って父親が隣に座るのですが、私が理解できないと容赦なく殴られました。
泣きながら必死にペンを動かしても殴られる。
「嫌だ、辞めたい」。
心の中で叫んでも声には出せず、ただ泣き喚くだけでした。
課題が終わらないと夜11時まで寝かせてもらえず、朝は5時に叩き起こされて勉強させられました。
私の睡眠時間は
「23時〜5時」のたった6時間でした。
学校から帰るとすぐに塾へ行き、帰宅はいつも21時ごろ。
しんどくて、眠くてうとうとしていると殴られます。
限界を迎えてトイレに逃げ込み、便座の上でうとうとしていると、
外から鍵を無理やり開けられて殴られました。
しまいには「扉を閉めてトイレをすること」すら許されなくなりました。
破綻していく心と「穀潰し」と呼ばれた日々

小学5年生になると、1つ下の妹が参加していたミニバス(バスケットボール)のチームに見学に行くなかで自分もやりたくなり、参加することになりました。
しかし練習はアップだけでへとへとになる運動量で、体力こそついたものの技術は全く上手くなりませんでした。
このミニバスと受験勉強の両立は非常に厳しく、毎日の疲労で限界でした。
小学6年になると、5つ下の妹が通っていた受験とは関係のない個人塾にも通わされることになりました。
朝5時に起きて勉強、学校、1つ目の個人塾、2つ目の中学受験塾、そして帰宅して23時まで勉強。
塾の授業中は疲労の限界で寝てしまうことが多く、よく注意されていました。
授業も聞かずに、現実逃避するようにノートに絵ばかり描いていました。
心も体も極限状態だった小学5年生の頃、僕は親の財布からお金を抜くという過ちを犯してしまいます。
最初は小銭、次は千円札と癖になり、どんどん金額が上がってついに「1万円」を抜いた時にバレました。
当然のように酷く殴られ、月500円程度だった小遣い制度は終了。当たり前です。
何かの罰で頭を坊主にされたのもこの頃です。
家にいる間、辛すぎてまともに勉強が手につかない私を見て、親からは毎日のように暴言を吐かれました。
「勉強したふりばかりしやがって」
「毎月ゲーム機が買える値段を払っているのに」
「この穀潰し(こくつぶし)が!」
「お金をドブに捨てているようなもんだ」
言われても仕方がないとは思いつつも、辛くてやりたくない気持ちでいっぱいでした。
小学6年の時、ついに親から
「やる気がないならやめろ」と言われました。
私はそれに「辞める」と伝え、ついに進学塾から解放されました(個人塾には通い続けました)。
それからは友達と遊ぶことが許されましたが、家では相変わらずに
「穀潰し」「お金をドブに捨てた」と揶揄され続ける毎日でした。
いろは坂の奇跡と、恋の惨めな終わり
そんな暗黒のような小学6年生の秋。修学旅行の先で、私に奇跡のような出来事が起こります。
行き先は日光・赤城方面。観光バスが「いろは坂」のくねくねとした山道を登っている最中のことでした。
たまたま席が隣になった「新倉さん」という女の子から、
「お互いに気になる人を紙に書いて渡し合おう」というイベントを持ちかけられたのです。
ドキドキしながら受け取った紙を開くと、そこには私の名前が書いてありました。
そして私が渡した紙にも、彼女の名前。
このいろは坂の途中で、私たちの交際はスタートしました。
良好な関係を築いていた私たちは、秘密の「交換日記」を始めました。
息が詰まる日常の中で、それは僕にとって唯一の救いでした。
しかし、その小さな幸せすらも親に奪われます。
大切にしていた交換日記を親にバレてしまい、内容をすべて見られた上で激怒され、あろうことか学校にまで報告されてしまったのです。
日記の内容を親や大人たちに見られ、私の心は完全に詰みました。
絶望と羞恥心でパニックになった私は、あろうことかそのやり場のないイライラを、一番守るべきはずの新倉さんにぶつけてしまったのです。
当然、私たちは破局しました。
自分の弱さで大切な人を傷つけた、最悪な人間でした。
最後に、親から受験を勧められ、了承して受けた近くの私立中学には受かりましたが、昔の目標であった学校は不合格。
結局、私はどこへ進学することもなく、地元の公立中学校へと進学することになりました。
人を笑わせるのが好きだった少年の心は、度重なる暴力と抑圧、そして自らの過ちによって、すでにボロボロでした。
しかし、本当の地獄はここからだったのです。中学校という新しい環境で、
僕はさらに深い「虐待」と「非行」の暗闇へと突き進んでいくことになります。
(第2話「思春期編:居場所を失った暗黒時代と、自立支援施設」へ続く)
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